さて、大和川に着いた。
堤防沿いに西に歩く。
大きな川だ。昔からここにある。
のんびり歩く。川はのんびり流れてる。
現役時代は毎日、電車に乗ってこの川を渡ってたはずやけど、ほとんど記憶はない。
一度だけ鮮明に記憶してるのは、ある台風の時だ。いく時から増水してる。このまま台風の大雨が降ったら危険水位を突破して帰れへんようになるんとちゃうやろか?
てなことを心配して、いつもなら飲んで帰るのをわりと早めに電車に乗った。
帰りの水位はさらにすごかった、電車から見てたらもう線路ギリギリまで来てそうに思えるほどだ。ほんとにそうなら電車は走らへんはずなんで実際はそれほどでもなかったんやろけどえらくゆっくり走って乗ってる方も力が入った。
帰った直後に不通になった。その後、川近くのJR浅香山駅などは冠水被害があったらしい。
なんかないと意識に残らへん。
歩いて通ると、けっこう気持ちが入る。
この橋は、遠里小野橋って書いてある。
この地名ってこのあたりでは大きい存在なんやなあって思う。
大和川の付替。
大和川ってわしの意識では大阪市と堺市の境界って地理感でなりたってるけど、漠然と奈良の方から流れてきて大きな川になってるんやという感じしかもってなかった。
今回ちょいと調べたみて。
いろんなことがわかって面白かった。
水源は生駒ではないみたい。奈良の桜井市、万葉のふるさとのあたりの山のなかから流れ出して、生駒と葛城の両山系のあいだをうまいこと抜けて、大阪と堺のちょうどええあたりに流れ込んでる。
自然にこんなに都合よくいくはずがない。
遥か、奈良時代の昔から水利整備、付替の歴史があったのだそうだ。
そういや何だか習ったことあるなあ。
小さな川がいっぱいあって、毎年、毎年、水害に被害をあちらこちらにもたらしてたみたい。
千年以上前に和気清麻呂が大規模な工事を始めたという記録があるらしいけど、これはうまくいかなかった。
その後、何度も何度も水害に苦しみ、川の付け替え整備の試みがあったけらしいけどうまくいかない。
江戸時代になってやっと、中甚兵衛らの嘆願が実を結んだこともあって、1704年公儀普請が決定し、わずか8ヶ月で完成したのだそうだ。
これにより、大阪平野の北部に流れ込んでた夥しい小さな川が統合されて、大和川となって堺に注ぐことになったらしい。近隣の大名には手伝い普請が課せられた。
なんだか壮大な話だ。
これで、たくさんの新田ができた。ここに入植して財をなしたのが、鴻池新田の鴻池家らしい。
わしは、現役時代には、電車に乗って大和川を越えて、大阪市内と通り抜けて、鴻池新田の駅の次の駅まで通勤してた。
まあ、何の関係も、縁もゆかりもないけど、誰も興味ないけど、何かしらの関連があるとちょっとだけ面白い。
ついでに思い出した。入社当時、その勤務先が近くの恩知川が氾濫したことがあって、冠水の水害にあった。事務机の上まで浸かる大災害だった。
縁はつきないですなあ。
てなことで川を渡る。
橋は普通の橋。
味も素っ気もない。
道はさっきの府道30号線。
寂しいあたりだ。
昔は、町工場で賑わってたと思しき建物がたくさんあるけど、今はどうなんやろ。
あんまり賑わってる風ではないけど、
家は多い。
堺の下町、
裏町どおりを抜けて、南海高野線浅香山駅に向かう。
今回の旅のコースの地図です。ご覧ください。
今回の旅の様子をYouTubeにアップしました。ご覧ください。
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