さて、対岸を歩き終えて振り返ったらなかなかエエ風景が目前にある。
こんな風景がとても良い。小豆やら大豆やら、名前の知らん色んな豆、唐辛子、干せるモンは
全部干してある。自然の恵みを頂くのだ。
で、ここからまた回廊を戻る。
少しはお店があるけど殆どが閉まってる、シャッター街だ。
奇山を見ながら進む。
次に来ることがあったらこの回廊も見違えるようになってしまってるかもしれん。
てなことで、ここはこれくらいにして次の村に行く。
車で20分ほど走ったらもう着いてしまった。
ここは岩頭蒼坡古村というところだそうだ。
ここは村全体が文房四宝を象った造りになっているという。聞いただけで胡散臭いけど
どんなんなんやろ?
文房四宝というのは文字通り硯、墨、筆、紙という文房具の基本になる道具の事を言う。
文人たるものは、道具にこだわりを持った目利きであると共に名品を座右に置くべしと
言うことなのだ。しかし、これがまたとても難しい。
というのは、こういうものには骨董品と実用品の2面性があるからだ。
エエもん=カッコええモン=高いモン=希少なモン→骨董品になってしまうのか?
例えば硯をとってみよう。
エエ硯ってどんなんやろか?
実用面でいけば良く磨れたら良いだけの話。しかし、見たり触ったりしただけでは
どんなんが良く磨れるか分からへん。しかも、買う時に試し磨りなんか絶対できへん。
鋒鋩が立ったやつがええという。しかし鋒鋩なんて顕微鏡で見ても分かる人しか
わからへん。硯買いに顕微鏡を持ち歩くのも面倒だ。
そうなると値段と見た目とブランド名で行くしかないと言う話になる。
端渓硯がええで、とか歙州硯がええでという話に踊らされてしまうのだ。石の彫りが
どうとか眼がどうとか曰く因縁がどうとかこだわればきりがないけど、そこそこの
モンを買って使ってみて問題なければそれでエエというくらいで良いのではないかと思う。
墨はどうやろう?
水墨画を勉強してる友人たちと墨の勉強をしたことがある。
基本的に墨の粒子と磨り方とは関係がなさそうだ。粒子の大きさは墨が作られた時に
決まってしまってる。どんな良い硯で精魂込めて磨っても粒子の大きさは変わらない
というのが学問的な研究でわかっているのだそうだ。
そやから、夜明け前に起きて、斎戒沐浴して越し方を懺悔しつつ清浄な葉っぱに溜まった
朝露を硯に集めて赤子の肌を撫でるように墨をすりおろしても、品性邪悪な爺さんが
お尻を掻きながら墨をゴリゴリしても大差はないと言うことらしい。
つまりエエ墨を買わんとあかんということなのだ。
均一な粒子を均一で上質な膠で固めたヤツがええということ。
粒子の大きさと膠の分量で書に使うのと絵につかうのとの向き不向きがあるというけど
それとて好き嫌いの範疇でもある。
とても難しい。
けど誰も興味ないと思う。
筆と紙の話はまた後日。
ということで、この石粒の道が筆を表してる?
わからんなあ。
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ありがとうございました。