コロナ日和の日々、妄想の旅に出る。V国へ、H市からF市へ列車の旅−29、水辺に暮らす人たち。

水辺に暮らす人たち。

駅の周りは結構寂しい。そろそろ戻ろう。
川の方に行ってみよう。王宮やお寺のかなり上流の方だ。その支流であるらしい。
舟が沢山見えた。
そこに暮らしがあるように見える。
とても貧しい暮らしだ。
汚らしい岸辺に乗り上げた舟、浮かんだままの舟。
まだ使える動きそうな舟もあるし、壊れたままのやつもある。
船体も船室もボロボロに近い。打ち捨てられてるようでもない。
人がいてる。しかも住んでるようなのだ。
その証拠に洗濯物が干してある。この国らしいプラスチック椅子に座ってる人もいてる。
ただ単に立ってる人もいてる。
もちろん電気は来てない。電線がない。
水道があるはずもない。
もしかして、炊事も飲み水も川の水やろか?
排水も川に?
なんという暮らしだ。

水辺の生業というのはどこの国にもあって、結構賑やかでパワフルな雰囲気のところが
今までは多かった。街角、路地裏の元気いっぱいな感じとよく似てる。そういうところは
商売があったり観光があったりするところも多くて、住んでる人だけではないいろんな
人が入り混じった熱気があって、通りすがりでもつい惹き込まれてしまう。
止むを得ぬ生業であったとしてもそれを逆手にとって暮らしの糧にしてしまうしたたかさに
圧倒されるのだ。
ここはそんなんではなくて、ただ寂しい。
街外れの裏通りの川のそばでひっそりと暮らしてはる。じっと見てるのがつらい。
こういう暮らしは、ミャンマーの水田の外れでみたことがある。
ネパールの通りすがりの河原でも見たことがある。どちらも大きな木の下に
木の皮を使って屋根を葺いたとてもシンプルな暮らしであった。
どの暮らしも絵の題材としてみたらとても得難いものだ。非日常の人の暮らしがここにある。
心を打つ絵が描けるかも知れん。
と言いつつ、
こんなん上から目線の勝手な思い、貧しい、哀しい、さぞ、不自由やろと思うのは
こちらの浅はかさ。余計なお世話。物事をこっちから見ただけの話で、
彼らはそっちから見て、十分満ち足りた暮らしをしてはるんかもしれん。
それをどう絵にしたらええんやろ。
悩ましい。
てなことで、覗き見をやめて先に進む。
小さい川には先ほどの駅に繋がる列車の鉄橋がある。列車の線路の両側には、バイクや
自転車や人が通れる細い道がつけられている。これを渡って見る。
自転車やバイクがどんどんくるんで歩きにくいけどこの国らしくて面白い。
そのまま、行くと大きい川まで出た。さらに東に進んで中央の大きな橋を渡ったら旧市街にいけるはずだ。
そこにもおもろいもんが、おもろいことが、沢山あるに違いない。

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ありがとうございました。