中国の人達と奈良、金沢へ-06 宇治の平等院から京都へ帰る

彼らと一緒に中に入るのは初めてだ。
「なるほど」これは時間がかかるだろう。
あちらでゆっくり眺め、こちらもゆっくり眺め、またそちらもゆっくり眺める。
気に入ったり、気になったりしたものはとことん眺めているのだ。
説明を聞く事もあれば、解説を読んだりもしている。
丁寧に時間をかけているのだ。
「やっぱり美術学校の先生方なんやなあ」モノの見方がちがう。
朱塗りの南門から入って、周辺を見てまわるが、なかなか下に降りない。
先に行って待っていよう。鳳凰堂は下にある。
池まで降りると鳳凰堂が目の前だ。池の畔のベンチに座ってゆっくり眺めていよう。
こうやって見ていると、中国の庭園の作り方と日本の庭園の作り方の違いを考えて
しまう。
中国では小中看大とか、正中求変とかいう言葉があって、如何に見る人の動線を
複雑にして、大きく変化に富んだものに見せようと作られている。
確かに細かく景色が変わって面白くもあるが、じきに飽きるし、人が沢山いると
眼の錯覚がきかなくて、見せようとした変化が味気ないものになってしまう。
それに石や池で造った自然は、限りなく深山幽谷のそのままに見えるように
しようとするので、それもしばらくすると飽きてしまう。
反対に日本の庭園は、できるだけ入らないものを切り捨てて、その結果逆に
見えないものまで見せる工夫がされているように思う。
つまり画と一緒で上手な省略は逆に深みを産み出すのだ。
だから日本の庭園にいる方がはるかに落ち着くのだ。
やっぱり精神的な文化の奥行きは日本の方が深いぞと言ってもいいのではないかと
思ったりする。
暇だから余計な事を考えているうちにやっと皆揃った。
この後時間があったら、「黄檗宗大本山萬福寺」に行こうとしていたが、
「もうええ」と言う事だ。
京都の妙心寺まで皆さんを送ってから、私は家に帰ろう。

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