坂を降りながら。
坂を降りながら思った。
おもろない。
13年前に来た時と比べたらえらい変わりようだ。なんでこうなってしまったんやろ。
因みにその時の写真を紹介しよう。
あの時も、観光用に整備されたとこやなあって思ったけど、今から思えば全然違う。
坂を下りながら、道のよこにお土産屋があっても、少なかった。
決して風景に勝つような、押しつぶすような存在感ではなくて、むしろ風景の中にあった。
ええ感じやなあって思いながら歩いた。
たしかにそれでは、儲からへん、十分な売り上げが上がらへん。
観光客が来ても旅行会社やホテルが儲かるだけで、村の人は幸せにならへん。
今みたいになったら、売上は絶対上がる。
例えば、京都の清水寺の参詣道、産寧坂みたいなもんかもしれん。
いくら、昔の風情を残しつつ通りを作ったところで、おもろないのは同じではないか。
観光地はどこもそうなっていくのが当たり前と思わんとあかんのか。
どこでもこうなっていく。
それが、ええ観光地の証ということなんやろね。
あんまり他人が知らんええとこ見つけて、ほくそ笑んで、有名になったら他を探す。
これしかないんでしょうなあ。
ここには静寂があった。
ここには素朴な暮らしがあった。
ここには貧しさがあった。
ひょっとしたら、貧しさだけ残ったんとちゃうやろか?
それなら哀しすぎる。
わしが求めるのはこんな気分。
陸游と言う人の漢詩。
大好きなんでよく引用してる。
西村 陸游
乱山深き処に小桃源あり
往歳(おうさい)漿(しょう)を求めて
門を叩きしを憶う
高柳橋に簇(むらが)れるに
初めて馬を転ずれば
数家水に臨んで
自ずから村を成せり
茂林風は幽禽(ゆうきん)の語を送り
壊壁苔は酔墨の痕を侵(おか)せり
一首の清詩 今夕を記すに
細雲 新月 黄昏に耿(こう)たり
或いは、これも有名な漢詩で、水墨画の題材としてよく使われてる。
胡隠君を尋ぬ 高啓
渡水復渡水 水を渡り復た水を渡る
看花還看花 花を看 還た花を看る
春風江上路 春風江上の路
不覚到君家 覚えず君の家に到る
こういう心象風景はだんだんとなくなってきた。
ハノイからサパ、カットカット村への旅をユーチューブ動画にしました。ご覧ください。
ブログランキングに参加していますよかったらポチンとお願いいたします。