時々、福岡遊、ついでに大分、佐賀をかすめて−19、佐賀県、唐津の名護屋城に向かう。

佐賀県、唐津の名護屋城に向かう。

さて、臼杵石仏を見られて満足してから一夜明けた。今日は、孫たち抜きで観光に出る。
方角は反対方向、佐賀県、唐津の方に向かう。
実は、歴史で有名な名護屋城跡というやつをまだ見たことがないのだ。イカや魚を食いに
唐津まで来たことがあって、近くに城跡があるっていうのは知ってたけどパスしてた。
興味はある。時間もある。ならば行ってみよう。

ナビを頼りにやってきた。裏口とちゃんやろか? 地道を登り始めた。そのずっと奥に
やや広いとこがある。整備はされてないけど駐車場っぽい?
わからんけどとりあえずここに駐車して様子をみよう。何人か散策してはる人もいてる。

それにしても大きな城跡だ。秀吉が起こす文禄の役、慶長の役のために急遽建てられた城と
いうことみたいやから、一夜城というほどではなくても結構間に合わせの小規模な山城程度の
モンやと勝手に想像してた。

来てみたらえらい違いではないか。下からは全容は見られへんけど、壮大な丘の上全部が
そうみたい、ぐるぐると登る間にそう思った。

登ってみれば、石垣が残ってはいるけど、建物はまるでなくなってる。それでもその跡は
元々どれほどの規模であったかを十分想像させうるものである。しかもそれだけではない。

城の麓には日本全国のこの役に参加を命じられた藩の兵たちが陣をはっている。
夥しい数だ。全部併せるとこの半島を埋め尽くすような巨大な要塞のように思える。

よう考えたらそらそうかもしれん。仮にも隣国に攻め入るんやから少々の規模ですむはずがない。
ここに要塞が必要やったかどうかは別にして、大軍が集まってたことは間違いない。

物知らずのわしがかってに矮小化してただけの話だ。

それでは、本丸の方に行ってみよう。

城としての形は想像し難いけどあちらこちらに曲輪があったことがわかる石垣が
そのままなのか、修復された結果なのかあるていど残っている。

雨が降ってきた。夥しい木々とした草が濡れて瑞々しさが際立ってくる。

特に目立ったものがあるわけではないけどなんとなく風情を感じる。

あの役でかの地や会場でたくさんの人が殺されたり、殺したりした。傷ついた人も多くいた。

しかし、ここが戦場になったわけではない。そやからこのあたりに霊が迷ってるということは
まずないはずだ。

わしには霊感なんて縁がないんでそういう類は全くわからへんけど、多分そういう場所では
ないと思う。

時々、人に出会う。コロナのせいか、人気がないんか、雨のせいか、人数は少ない。

空気がしっとりして、緑とよく似合う。

眼下に海が広がる。
「にぎたづに・・・・」という気分でこの城を作った?

この歌の場所はちがうが、やはり海を渡る遠征軍への言祝ぎの詠だった?
ただしこの時は、同盟国の存亡の危機に対しての応援軍の派遣だった?
遥か古代から悲喜交交ありとあらゆる往来があった国への一方的な侵攻?
秀吉の狂気?

哀しい歴史である。

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ありがとうございました。