時々、京都遊、嵐山、渡月橋あたり

振り返って見ると法輪寺の裏口の細い階段は裏庭にそってくねっている。坂を下りきるともう
眼の前に渡月橋が見える。楚々とした木の橋のように見えて実は結構しっかりした大きい橋なのだ。
左に登って行く川が保津川で右に下って行く川が桂川、でいいのかな?
左の岸辺に向かって一気に山が落ちている、秋の終わりには紅葉が山全体を真っ赤に染めて燃え上がる
ような美しさだが今は茶色く枯れてしまったように見える中にも緑が息づき始めていて、これから
一面の新緑を迎えるのだろう。大悲閣ははるか彼方だ。
「こんなんどやって画に描いたらええんやろ?」いつも思う。
漱石にこんな文がある。
『・・・・・
乱れ起こる岩石を左右にめぐる流れは、抱くが如くそと割れて、半ば碧りを透明に含む光琳波が、
早蕨に似たる曲線を描いて巌角をゆるりと越す。河は漸く京に近くなった。
「その鼻を廻ると嵐山どす」と長い棹をこ舷のうちへ挿し込んだ船頭が云ふ。鳴る櫂に送られて、
深い淵を滑る様に抜け出すと、左右の岩が自ら開いて、船は大悲閣の下へ着いた。
・・・・・・』夏目漱石、『虞美人草』より。
どうしてこんなにすごい言葉が浮かんでくるんやろ。嵐山の景色が一気に立ちあがるようだ。
光琳波か?早蕨に似たる曲線?どやって描いたらええんやろ?
更に続く。
『・・・・・
赤松の二抱えを盾に、大堰の波に、花の影の明らかなるを誇る、橋の袂のよしず茶屋に、高島田が
休んでいる。昔の髷を今の世にしばし許せと被る瓜実顔は、花に臨んで風に堪えず、伏目に人を
避けて、名物の団子を眺めている。
・・・・・・』 夏目漱石、『虞美人草』より。
今は高島田は休んでいない。
が満開の桜の季節にはもっとあふれるように人がでて新旧入り乱れていることだろうが、ここから
嵯峨野にかけて古都の旧が確かに感じられる場所であることは確かだ。
漱石はこの物語りで、明治の日本の欧米化の意気盛んな時期に、ひたすら新に走る人達のあやうさと
旧の心、思いやりや信義、礼節の心を守り続けることの大切さを、東京と京都を象徴的な舞台として
描いてみせたのではないかと私は思っている。
その心は今も同じだ。東京と京都ではなくてもっとグローバルな話で考えないといけない。
長い時間をかけて育てて来た精神文化を大事にしないといけないと思う。
失っていけない大事な物を沢山失いつつあるのではないだろうか。
小野さんと藤尾は金時計とともに壊れてしまった。
あの茶屋から小夜子の琴の音が聞こえてくればいいのに。

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おっと橋を渡ったら、左に曲がらないといけない。
川にそって少し登り、道なりに右に曲がっていくのだ。

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