ブルース・チャトウィン、「ソングライン」
もう2年も前になるやろか、オーストラリアのダーウィンに行ったことがある。
わしの知人の知り合いの芸術家がダーウィンに居て、友人達が集まって一緒に
個展をやらんかという話になったのだ。それはとても楽しくてエキサイティング
な経験であったけど、その時に街を歩いていてアボリジニの人達と出会うこと
が多かった。その時、何か不思議な違和感におそわれた。
何故かぼんやりしてはる。悪く言えばやる気がない。放心状態。
目に光がない。まわりに関心がうすい。
そんな感じだ。生きることに必要ななにかを無くしてしまったかのようだった。
ただの通りすがりに何がわかるというものでもないんやけど幸せではなさそう
だった。
ちょっと聞きかじった話では、アボリジニ人達への生活支援などはかなり手厚
くなされているようではあるけど、モノの所有とか家への定住とかいうことに
ついての価値観が全く違うようで、われらが言うような普通の暮らしには馴染
むことができないで、貰ったお金は酒を飲んで酔っ払うことに使ってしまう人
も多いという。
わしらがいう生活に馴染むことが文明的で正しいことかはわからない。
かれらの価値観の中にわしらが失ってしまったすばらしい生き様の知恵がある
かもしれない。
彼らは基本的には放浪の民であるようだ。
境界を持たずに線として移動する。オーストラリアの広大な大地をそれぞれが
それぞれのラインを持って先祖代々移動して暮らす民であるようだ。
・・・・
アボリジニが「私はワラビーの夢を持っている」と言ったら、それは、「私の
トーテムはワラビーだ。私はワラビー族の一員だ」と言う意味になる。
ワラビー族の人々は自分たちのことを、ワラビー族と動物のワラビーすべての
先祖である『始祖ワラビー』の末裔と考えた。
各トーテムの先祖がこの国を旅しながら、どのようにしてその足跡に沿って歌詞
と旋律の道を残し、どのようにしてそれら『夢の道』が遠く離れた部族との
コミュニケーションの『方法』として大地に広がっていったのか。
歌が地図であり、方向探知機であった。
歌を知っていればいつでも道を見つけ出すことができた。
・・・・
紀行ノートを読んでいるようで、何故かとても惹き付けられるところがある。
他の本も読んでみたくなった。
池上洵一編(岩波文庫)、「今昔物語集 本朝部 上」
時々、今昔物語りのような本を引っ張り出してきて読むのが楽しい。
この巻は、日本の仏教の始まりからの歴史を書いている。
「聖徳太子、此の朝にして、始めて仏法を弘めたる話」から始まって、
行基菩薩の話、行の行者の話、鑑真和尚、弘法大師、伝教大師などなどえらい
お坊さんの話などが続く。
久米仙人が若い娘の足をちら見して・・・という話もあれば、道成寺の若い僧
が娘に懸想される話もある。
実の面白い。
語り口が簡潔で要を得ていてしかもリズム感があってとても読みやすい。
あぼろげながら聞いて知っていた話や全く初めての物語りもある。話の内容も
楽しいけど、そこから見える当時の暮らしぶりや習慣、考え方などが生き生き
と立ち上がってきて日本の原風景が見えるかのようだ。
たまにこういう本を読むのはとてもいい。
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ありがとうございました。