志田忠儀、「ラスト・マタギ」
前に熊野古道を友達と歩いたとき、きつい山道をヒーヒーハーハーと登り下り
してたら、その横を風のように走る過ぎる人たちがいた。その人たちは山の人
と言うよりはアスリートみたいやったけど、こんな山の中を軽々と走って通り
すぎってどんな人たちなんやろと唖然として見てた。もっとずっと前に、大峰
山系を素人登山してたとき、ここは奥駆けって言うて行者さんたちが修行で走
りまわるとこなんやって聞いた。そう言えば、比叡山千日回峰っていうのも、
修行僧が山の中を風のように走り回る。
高かろうと低かろうと、尾根であっても崖であっても、岩があっても、大木や
藪だらけであっても臨機応変自由自在に山の中を走り回れる人たちがいるのは
たいしたもんや。人間業やないわって感心してた。
マタギと言われる人たちはもっとすごい。
何日も山に籠もって熊をおいかける。嵐が来ても、雪の中でも生き延びる事が
できる。自然を知り尽くしているのだ。
どんな時でも多分、変化の兆しを見つけるのが一番難しいんやと思う。
山梨の山奥でも、地元のおばあちゃんが、ずっと向こうに見えるあの山の上に
雲が湧いたら風がでるとかなんとか言ってた。
しかし、わしらはテレビばっかり見てるうちに何がなんやらわからんようにな
ってきた。自然が教えてくれる兆しがわからなくなってしまったのだ。
哀しいことだ。
それに、こういう人たちも、マタギでは暮らしていけなくなっている。
熊や兎を猟って食う。皮を売る。魚を捕って食う、あるいは売る。茸を見つけ
たら採って食う。そして売る。実にシンプルな暮らしができないのだ。
残念な事だ。
日本には田舎の暮らしもどんどん無くなってきている。
こんな大きなものを代償になにが得られているというんやろ。
沢木耕太郎、「246」
恥ずかしながら、「深夜特急」て文庫本で6冊もあるのにえらい夢中になって
で一気に読んでしまったという記憶がある。
それだけやなくて、読んだときのもやもやした高揚感が頭の中に残っていて、
その記憶の為に旅の目的地を決めたりすることさえあるようだ。
香港で九龍城を探したり、ホーチミンでは、わざわざマジェスティックホテル
に泊まって、ミスサイゴンというカクテルを飲もうと最上階に言ったらバーな
んてなかったり、バンコクでもデリーでもシンガポールで気がついたら、ああ
本で読んだとこかもしれんなあって思ったりしてる。
ポール・セローの本や開高健の本と共にアジアの旅ではえらい影響をうけてし
まってる。
そういう、「深夜特急」のメイキング本みたいな感じやったんで、急いで読む
ことにした。
ちなみに「246」っていうのはエッセイになった日記に期間かいなと思った
ら、そうではなくて、国道246号線あたりを散歩しながらできたエッセイという
意味だったようだ。
文章がうまいんで、すぐさま、沢木耕太郎ワールドに連れていってくれるけど、
期待してたような方向性の本ではなかった。
そんな事より、時分の旅に出かけやんとあかんのだ。
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