木宮高彦、「小説 与謝蕪村」
与謝蕪村の画は大好きだ。詩情がある。俳句もいい句が多い。
そんな程度で蕪村を考えてて、それでちょっとだけ気になってこの本を読み始
めたら、そんなどこやなかった。えらいすごい人やというのがわかって俄然興
味が湧いた。そんなわけで折角いつものように図書館で借りて読んでたのに急
遽アマゾンに注文してしまったのだ。
水墨画の世界には写意という言葉がある。現実であれ空想上であれ景色をその
まま忠実に描き表すのではなくて、その中に物語を入れる、想いを封じ込める
といったことなんやと思う。そやから気品のある高雅な画を描こうと思たら、
おのれの人格や知性も高める努力をせんとあかんと言うことなのだ。実行でき
へんけど。
本の中に句意という言葉が出てきた。俳句の世界も同じように自然の風景を切
り取るだけではあかんのだそうだ。その中におのずと高雅な心をこもっていな
いといけない。それが芭蕉では侘びとか寂の世界になっていったが蕪村はそう
いう禅的なせかいよりはもっと人間的な風雅さや遊びこころまでも含めたもの
を目指したということなのだ。そういうことであれば画も句も一体であって、
その両方を極めようとした心がよく理解できる。
あらためて与謝蕪村と言う人を追いかけてみようと思った。
上巻に「北壽老仙をいたむ」と言う自由詩がでてきた。
君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々に
何ぞはるかなる
君をおもふて岡のべに行つ遊ぶ
をかのべ何ぞかくかなしき
蒲公(たんぽぽ)の黄に薺(なづな)のしろう咲たる
見る人ぞなき
雉子のあるかひたなきに鳴を聞ば
友ありき河をへだてゝ住にき
へげのけぶりのはと打ちれば西吹風の
はげしくて小竹原(をざさはら)眞すげはら
のがるべきかたぞなき
友ありき河をへだてゝ住にきけふは
ほろゝともなかぬ
君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々に
何ぞはるかなる
我庵のあみだ仏ともし火もものせず
花もまいらせずすごすごと彳(たたず)める今宵は
ことにたうとき
何とすばらしい。こんな詩を創る人なんか。すごいやないか。
下巻には「春風馬堤曲」と言う自由詩が出てくる。
余、一日、耆老を故園に問ふ。
澱水を渡り馬堤を過ぐ。
偶女の郷に歸省する者に逢ふ。
先後して行數里、相顧みて語る。
容姿嬋娟として、癡情憐むべし。
因りて歌曲十八首を製し、女に代はりて意を述ぶ。
春 風 馬 堤 曲 十八首
やぶ入や浪花を出て長柄川
春風や堤長うして家遠し
堤より下りて芳草を摘めば荊と蕀と路を塞ぐ
荊蕀何ぞ妬情なる裙を裂き且つ股を傷つく
溪流石點々石を踏んで香芹を撮る
多謝す水上の石儂をして裙を沾らさざらしむ
一軒の茶見世の柳老にけり
茶店の老婆子儂を見て慇懃に無恙を賀し且儂が春衣を美む
店中二客有り能解す江南の語
酒錢三緡を擲ち我を迎へ榻を讓つて去る
古驛三兩家猫兒妻を呼ぶ妻來らず
雛を呼ぶ籬外の鷄籬外草地に滿つ
雛飛びて籬を越えんと欲す籬高うして墮つること三四
春艸路三叉中に捷徑あり我を迎ふ
たんぽゝ花咲り三々五々五々は黄に
三々は白し記得す去年此路よりす
憐みとる蒲公莖短して乳を浥
むかしむかししきりにおもふ慈母の恩
慈母の懷袍別に春あり
春あり成長して浪花にあり
梅は白し浪花橋邊財主の家
春情まなび得たり浪花風流
郷を辭し弟に負く身三春
本をわすれ末を取接木の梅
故郷春深し行々て又行々
楊柳長堤道漸くくだれり
嬌首はじめて見る故園の家黄昏
戸に倚る白髮の人弟を抱き我を待春又春
君不見ずや古人太祇が句
藪入の寢るやひとりの親の側
漢詩も俳句も自由自在なのだ。
子供の頃母と過ごした淀川長良のほとり毛馬の村がいまさらながらに心の痛み
のように立ち上がってくるのだろう。
こんなすごい人がいたんやと改めて感動した。
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ありがとうございました。