最近読んだ本、谷崎潤一郎、「蓼食う虫」の中の文楽の話に感動した。

  • 2019年6月1日
  • 12人

谷崎潤一郎、「蓼食う虫」の中の文楽の話に感動した。

はるか昔に読んだ本なんやけど、もう殆ど忘れてしまってて、ふと気が向いて何の気なしに
全集モノをパラパラやってたら、これえらい面白いやんか、いやいや素晴らしいやんかと
すっかり夢中になってしまった。
本の内容は仮面の夫婦。表向きは旧家のお金持ちの何処から見ても幸せそうな二人やけど
何故かセックスレス。夫は妻を愛しているが性的に興味を抱けない。ゲイかといえば
そうではない。神戸のさる妖しげな外人娘を囲った娼館に入り浸っている。妻にも
恋人ができた。さて二人はこれからどうなる?
とまあそういう話はそれでとても面白いんやけど、その中に出てくる文楽の話が
素晴らしい。妻の実家の父親がそういう方面の所謂粋人で、若い藝妓を妾にして
粋な暮らしをしてはる。
その義父に文楽鑑賞に誘われるという話がある。
文楽と言えば、わしなんかは舞台の上に出てくるLEDのセリフを老眼を凝らしながら
必死で見て、話に付いていってるという始末やけど、この時代の、多分昭和の始めから
中頃、人たちは、文楽にしろ歌舞伎にしろ出し物の話の筋はおろか、セリフの一々まで
知ってる覚えているというのが話をするときの前提になっている。
その上で、顔の動き、腕の動き、体の反らし方、品のつくりかた、微妙な瞬き、
全てが意味あるように動かす人形遣いの技の良し悪しをどこがどうだとここがああだと
事細かく、名人芸を見てきた肥えた目を前提に話ができる。
こういうのって谷崎の虚構の世界の中のことではなくて、現実にこういう世の中やったから
彼の文学の中で生き生きと語られるんやと驚いた次第だ。
動きや表情、仕草、そういうモノだけではなくて人形の着物の材料なんかについても
実に詳しい。もちろんそれは、普段の和服を着る暮らしがあっての前提なんやろけど、
こういう大事な文化を無くしていってしまったんやなあって思う。
大阪の文楽だけではなくて淡路の文楽を見に行く話もある。
大阪と淡路の違い、人形の違い、服の違い、語りの違い、目の前に浮かぶようだ。
わしは今までどちらかというよりは人形の動きよりは太夫の語りに惹かれて舞台を
見てたようなきらいがある。しかし、物語を全部覚えてる、セリフを覚えてるという
事が前提になると鑑賞の仕方がまるで変わってしまうかも知れん。
それに、今と昔の美意識の違いがある。というよりは今のわしらの時代は美しい
所作というものを殆ど知らんし実際に見たことも無いんとちゃうやろか?
どういうことが何故美しい? さりげない動きや眼の傾きだけでそれを現して
見せたとしても観客の誰もがそんなことをわからん朴念仁ばっかりやったら、
そういう芸も廃っていってもしょうがないかもしれん。
行政が古典文芸を大事にする心を持ってないと非難するのも大事やけど、もちろん
それはそうなんやけど、わしらももっと古典文芸を勉強せんとあかんなあって
痛感する。何の準備もなく劇場に行ったらすぐさま古典文芸のええとこが舞台から
降ってくるなんてことはありえへんのだ。
日々ゆるいくらしをしてるあいだに、とても大事なモンが周りから消えていってるんやねえ。
たまには古典の名作を読んで見ることも大事やで。
文楽も勉強して見に行きましょう。
いろいろ気合をいれて頑張って行きていかんとあかんなあって感じた次第。

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