辻邦生、「風雅集」
タイトルに惹かれて買ったのは大分昔のことやと思う。読んだ記憶はあるけど
定かには覚えてなかったし、なんとなくも一回読み直したくなって開いてみた。
ところで日本の水墨画あるいは日本画と中国の水墨画、あるいは中国国画の違
いって何やろ?
文人画って何やろ? 中国と日本で違いはあるんやろか?
理屈でわからんことはいっぱいあるけど、見たら結構違うと思う。
前に友人たちとアメリカの北の方、シアトルの近くに有るベリンハムという所
で共同個展を開いたことがある。日本に行ったことがあるとか日本文化に興味
があるとかいう人がいくばくかは見に来てくれて褒めてくれたり知らん顔して
帰ったりしていた。その中で、ちょっと口うるさそうなおばさんがいて、私は
墨絵で大事なんは侘び寂びが描けてるかどうかやと思うと言いながらわしの絵
をじっと見て、あんたの絵には侘び寂びが欠けてるわとおっしゃる。
こことここのあれとこれがが悪いんよとおっしゃる。
「おばはん何言うとんねん、わしかて侘び寂びみたいなん描いとるわい、わかっとらへん癖に」
とむかついたけど、ごもっともな説でもある。これからは余白の美、描かずに
描くたらいろいろ思いはあったような気がするけど、侘び寂びって考えてなかった。
それも大事なことやんかとわかった。
気韻生動という言葉が中国の絵では重要と習った。絵に気が漲る、品性が溢れ
でる、こういう絵がいい絵とされている。文人画というのは科挙に高位で合格
したような優れた役人が嗜む文芸のことであるという。
よう考えたら日本でええなって思う絵と目指す所はちょっと違うんとちゃうや
ろか。似てるようで、しかもええもんはどうころんでも素晴らしいから何が違
うかはようわからへん。
それでこの本を読んで、何故違うかというところが何となく朧げながら感じる
ようになった。
東歌から西行、蕪村に流れるもの。
鳥獣戯画から光悦、宗達、光琳、抱一と続く美の探求。
そして池大雅やその時代の文人たちのこだわり。
こういう綿々と築かれてきた日本人の風雅の心と中国でのものとの違いなん
やとおもう。決して向こうがオリジナルでこっちが真似しのモンとは違う全く
別の美の世界があるんとちゃうやろかと思ったのだ。
とはいうものの直ぐに何かが上手になるわけでもない。
ええもん見て、ええもん創れるよう頑張ろう。
李龍徳、「報われない人間は永遠に報われない」
書店の店頭に面白いそうな本が並んでたんで、買わずに図書館で借りて読む事
にした。これがわしの常套手段だ。
深夜のコールセンターで毎晩、毎晩同じルーチンワークにうんざりしながらも
抜け出す努力すらできない僕は、仲間たちとの趣味の悪い賭けにのって偶々、
エレベーターの中で二人きりになれたのを幸い誘いをかけた。冷たい女と評判
の彼女に邪険に扱われるのかと思いきや事は意外な方向に向かう。しかし、そ
れは希望でも幸せでもなんでもなくて、どろどろと暗くて陰惨な道になるのか
もしれない。見てくれの悪い不味そうな料理が出されたレストランでしぶしぶ
食って見たら異質な味わいが消えないもののどこか心惹かれる旨みや渋みが感
じられて、意外と美味しいやんと思わずいってしまった時のような気分が、読
んでるそばから立ち上がってくる。
何かこんな世界ってありそうやなあ。それにしてもどうしてこう救いがないん
やねん。そんな描写がとてもうまいんで次どうなってくんかを読みたくなって、
ずるずるしてるあいだに読み終えてた。
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ありがとうございました。